3月11日(金)

明日は、ヨーロッパへの出張の出発日。セミナー発表の準備を追い込み。2時半すぎに、小さな縦揺れを感じる。また余震だろうと判断し、仕事を継続。横揺れが来て、机の横のタワー型のパソコンがかたかた揺れる。HDDが振動で故障することを何よりも恐れた僕は、本体を押さえる。缶コーヒーが倒れ、中身が机上に広がる。腰掛けている車輪付きのいすが揺さぶられ、パソコンが土台からズレ落ちる。
「これが宮城県沖地震かっ、ついに来たかっ!」
と一人で声に出して叫んだ。本棚の中身が全て落ち、ディスプレイが一度明滅したあと、照明とともに消えた。呆れることに、ここでようやくHDDにあきらめがつき、机の下に潜る。揺れは一度減衰したのちにに再び増し、天井に据え付けられた換気ダクトが落下、多量の埃が舞う。周囲に怒号。揺れは再び減じ、三たび増大する。ニュージーランドの建物崩壊を思い出し、室内の壁を見る。日本の建築は大丈夫なはずだと思いこむ。激震は3分くらい続いたように感じたが、感覚は心理状況に影響をうけるので当てにならない。実測すれば、もっと短かったかもしれない。ここ名取市震度6強であった。

同僚と避難を始める。廊下のエアコンは全て落下し、防火扉が閉じていて、避難を遮る。屋外で学生がウロウロしている。みな興奮しつつも表情が軽く、笑いながら揺れのことを話し合っている(すでに春休みであり、この日は部活動の練習をしている学生だけが登校していた)。
「へへ、専攻科の部屋、終わったよ。ダメだよあれもう」
「パソコンの上を歩いて逃げてきたー」
などの会話。グランドに100名ほど集まる。幅15センチ、長さ20mくらいの地割れができている。余震が来ると、地割れの向こう側が揺れる様子が、ちょうど電車の連結部近くに立って、隣の車両を眺めている場合のようであった(つまり向こうとこっちで、位相がずれている)。避難のあとは

  • まず何をすべきか、判断ができない。
  • 校内に取り残されたかもしれない人を探すべきか、それとも建物内は危険であるから近づくべきでないか。

など、次の一手に、混乱する。個人的にも、明日からの出張をどうすべきか迷っていた。「行けるなら行くべきでしょう」などと声をかけられた。

ひとまず避難学生の点呼をとり、皆が各自の判断で動き始める。帰宅可能な学生は帰宅し、難しい学生は寮の食堂を避難所とした。30分ほどして、パラパラと学生やスタッフが消えていった。

自室に戻り、明日からの出張に必要なものと、バックアップHDDを鞄に入れ、外へ出た。にわかに空が暗くなり、雪が降る。校舎内を見回り、多くの内壁が破損していることを確認する。

Kさんの車に乗って雪を凌ぎ、カーナビでテレビを見る。

を知り、慄然する。ここに来て事態を深刻に受け取り始める。帰宅する。

自宅マンション(6F)の様子:

  • 収納棚から食器が散乱、7割破損。
  • 地震対策を施したリビングの本棚は、あしもとがズッコける形で仰向けに転倒。施していない本棚は、うつぶせに転倒。
  • ベランダのプランター全壊。
  • テレビ落下。
  • 壁に掛けたギターが無事

など。

携帯電話は、地震の直後から数時間の間、かろうじて通話が可能であった。その後、次第につながらなくなり、当日の夜あたりから全く通話不能になった。

マンションで特にすることが見あたらないので、食器を少しより分ける。妻から着信があり、無事を知る。しかし、妻の家族とは全く連絡が取れない由。ラジオの情報から、公衆電話がつながることを知り、最近はすっかりまばらになった電話ボックスを探しに、外へ出る。ひとまず徒歩5分ほど離れた場所にある名取市役所に赴くと、電話ボックスのまえに数人の待ち行列。役場の周囲には、300人超の人と、たくさんの車。泥だらけの車もあった。大量の食料を運んでいる役場の人達がいる。どこかのコンビニから仕入れたのか?あれは配給に回るのだろう。亘理にある妻の実家へ災害伝言ダイヤル。妻と自分の無事を録音する。静岡の実家に電話がつながり、無事を告げる。津波が凄いでしょう、よく無事だったねという母の声に、こちらは停電でテレビが見られないから、何も解らないと応える。

8時頃、普段なら車で20分の距離を、3時間かけて妻が帰宅。昨夜のご飯の煮物とお菓子、冷凍庫で、まだ溶けていなかったアイスを選び、懐中電灯の明かりで夕食をする。ラジオの声から、今回の地震が、国家規模の大災害であると認識し始める。自分の被災状況はまだマシなほうなので、奉仕活動をしなければならないと感じる。

水が全く無いので、妻を連れ、学校で使っていた実験用精製水(20L)を2箱、とりに出かける。玄関にて、お互いが選んだ靴について、小競り合い。僕は、地面が荒れているので運動靴を履けと勧めたが、妻はそうでない普段もっとも使う靴を履きたがった。

まず、避難所になっていた寮に行き、自宅に余っていた毛布と布団を1枚ずつ届ける。食堂には帰れなくなった学生が100人ほど、教員が10名ほど留まっている。学生は憔悴しており、教員は働いているような、帰るに帰れずただウロウロと時間をもてあましているような様子であった。精製水は1箱を自分用に、もう1箱に張り紙をしてマンションフロアの共用とした。精製水の空箱も、飲料水の配給を受け取るために、有用であった。
闇の中就寝。

【覚え書】地震発生直後、携帯電話はとにかく役に立たなかった。災害伝言ダイヤルは、伝言の発信元と受信先が、ともに被災地の市外局番をもつ番号に限定された。その際、携帯電話は無条件に除外されてしまうようであった。ezwebが用意した、「災害伝言板」は、まったく繋がらなかった。