3月12日(土)

晴れていて、少し寒い平年並みの朝。残り物の炊き込みご飯を全て食べ、早速出かける。以降は箇条書き。

  • マンションから海の方向を見ると、3件火災が発生している様子が見える。周囲では消防車のサイレンが鳴りっぱなしであるものの、昨日の昼からずっと燃え続けていて、手が付けられていないようだ。
  • 絶対に足りないとだろうけれど、小さいおにぎりを十数個つくって、避難所に差し入れる。配給も足りていない様子で、今日の学生達の昼食は山崎ランチパック一袋だという。教員が「(食べ物は)昼には無くなりますよ、役所からの配給が回ってこない」と話していた。
  • 近所の小さなスーパーIが、朝開店している。飲料と火を使わなくても食べられる菓子類を買い込む。妻が大量のアンドーナツを買おうとし、僕はそんなにいらないと反対する。昨夜の靴の件とは逆で、今度は僕が自体を過小評価していた。あとで感じたが、もっと食料を買うべきであった。結局4000円の買い物。その日の昼すぎには、スーパーIは空になり、閉店した。
  • 義母の職場、I市役所を訪れ、スーパーIで買った食料を差し入れる。義母とその同僚は、昨夜から泊まり込みで対策にあたっている。地震発生時に沿岸で働いていた役所職員数人と連絡が取れない由。
  • 信号が消えていて、警察による交通整理もない。驚くべきことは、それでも運転に支障がほとんど無かったこと。片側2車線以上の幹線道路の交差点でも、それぞれの車は適宜譲り合い、まるで信号があるかのように交通が流れる。右折レーンの無い細い道でも、右折待ちの車が後続を遮ることがないので、いつも渋滞する旧道が、滑らかに流れていた。
  • 義弟(妻の弟)は来春からの就職が決まっていて、今は休暇中。地震発生時は、85才のお祖父さんと亘理町の自宅にいたはず。地震後から全く連絡が取れない。妻の実家は、阿武隈川河口の堤防の直ぐ下にあり、海岸線からは200mと離れていない。かなり大きな津波に襲われたと推測された。亘理町の様子について手がかりを得るために、妻の同級生Sさんが働いている近所の居酒屋を訪ねる。Sさんは憔悴した表情で、

「実家を見てきた。あのへんはもう無いよ。中学校の3階まで水がきていた。亘理大橋の向こうは、まるで映画のように、海になっていた」
と話した。

  • 市役所に行き、電話ボックスで災害伝言ダイヤルに伝言を入れる。帰り道、デイリーヤマザキ前に、50人ほどの行列。行列はレジからぐるりと店内を一周し、ドアの外に5mほど飛び出ている。カップラーメン、カップ春雨、ビールを買う。酒類は需要が低く、比較的手に入りやすい。
  • プロパンガスの配管がチェックされ、ガスが使えるようになる。すばらしい迅速さだ。もともと家にあったサッポロ一番塩ラーメンを食して、ガスでご飯を炊いておにぎりをつくり夕食とする。350ccのビールを飲む。明日、ひとまず亘理町内陸部にある小中学校の避難所を片っ端から訪ねてみようと、妻を励ます。内心では、義弟とお祖父さんは、もう亡骸も見つからないだろうと感じていた。妻も同様に考えていたかもしれない。
  • 近所に葬儀屋があって、ロウソクを売ってくれた。一本のロウソクで8時間燃えるという。それが8本入って1000円。炎の明かりは等方的に広がるので、懐中電灯と比べてもはるかに明るく、読書も十分にできるくらいだ。ロウソクがこれほど明るいとは驚きであった。