日本語の曖昧さ

昨夜,国際ニュースのアナウンサーがいった次のフレーズが気になった。

「・・・アメリカはいつものように譲歩する姿勢を見せず・・・」

ここだけしか憶えていないのだけれども,この文だと「アメリカは,いつもそうしているように,今回も譲歩しなかった」という意味なのか「アメリカはいつもなら譲歩する所だけれど,今回は譲歩しなかった」という意味なのか,はっきりしない。ただアメリカのことだから,当然前者であろうとは,察しが着くのだが。

正確に情報を伝える必要のあるニュースで,こういう曖昧な表現を聞いてしまうと,苛立つ。しかしこのような表現を可能にしている日本語の構造の問題もあるのかなと思う。ところで同じく昨夜,

郷愁の詩人 与謝蕪村 (岩波文庫)

郷愁の詩人 与謝蕪村 (岩波文庫)

を読んだ。そこに次のような一文を発見して,はっとした。

蕪村の句「うは風に 音なき麦を 枕もと」の解釈を紹介した後,著者の萩原朔太郎はこう書き加えている:

俳句の如き小詩形が、一般にこうした複雑な内容を表現し得るのは、日本語の特色たるてにをはと、言語の豊富な聯想性(れんそうせい)とによるのであって、世界に類なき特異な国語の長所である。そしてこの長所は、日本語の他の不幸な欠点と相殺(そうさい)される。

日本語の文法が曖昧な表現を許していることと,俳句のような極度に省略された詩が日本語でのみ(たぶん)可能である事には,何か関係がある気がしたのだった