3月13日(日)

 小春日和。最高気温は17度と予報が出ていた。車で南へ30分、避難所となっている逢隈小学校へ移動。

  • 避難所を探し回ること30分弱、義弟M君とお祖父さんに再会。「そんなに簡単に死にませんよ」とは彼の言。以下、義弟の話:

地震発生時、友人宅にいた。揺れが収まったのち、テレビで大津波警報を知る。NHKの定点カメラ映像が、静かな気仙沼港の様子を映していて、「すでに到達した津波が40cm」などとアナウンスされていた。」本当に津波がくるか半信半疑であったものの、念のため車で自宅へ帰り、お祖父さんを連れて、ふたたび友人宅へ戻った。車を降りた時、地面をたたく土砂降りのようなゴーという音が聞こえ、目の前の道路を数センチほどの浅い水がサーッと流れていくのを見た。ブロック塀に昇って海側を見ると、大きな流れがこちらに迫ってくるのが見えたそうだ。あわててお祖父さんに声をかけ、二階へ昇るよう促すが、お祖父さんは動こうとしない。階下へ戻りお祖父さんの腕をつかんだ時点で、もう水が腰まできたそうだ。胸まで水につかりながら、友人宅の階段を二人で上り、2階で1夜を過ごした。翌日、阿武隈川沿いの堤防を上流へ向かってずっと歩き、避難所まで自力で移動した。」
お祖父さんはビーチサンダル、M君は就職活動用の革靴を履いていた。

  • M君とお祖父さんを連れて、自宅に戻る。
  • 夕刻、母親へ電話をするために名取市役所に。電話ボックスの前に10人くらいの行列。目の前に、高専の5年生(名前を知らない)を見つけ、声をかける。ラグビー部の彼は、部屋着にジャンバーを羽織り、小さなバッグを肩にかけただけの姿で

「俺、これだけで逃げてきたんすよ、これしかないっす。」
とやや興奮した声音ではなした。

  • ラグビー部の彼の話: 名取市の沿岸、閖上地区に住んでいる(名取市ではもっとも被害の大きかった地区)。揺れが収まったあと、津波が来た。海水ではなくて、崩れた家々が寄り集まってこちらへ迫って来、足下を数センチの薄い水が、サーッと流れてきたという。自転車に乗り、避難する自動車の列を追い越しながら走った。途中(液状化した?)ぬかるみにはまり、自転車を捨て脚で逃げた。振り向くと、渋滞にはまった車が、次々と迫る家々に飲み込まれていった。避難所の小学校の屋上で、人の乗った車が、深い水に流されていくのを見たという。僕は着の身着のままの彼に、財布の中にあったお金を渡した。しかし今、お金はほとんど役に立たない。
  • 冷凍室に保存してあった食品がほぼ解凍されていたので、それを食べ夕食とする。