イジメの思いで

小学校の4・5年生くらいの頃の思いで。

僕が通っていたI小学校の裏手には、楠や樫やらの鬱蒼とした森が広がっていた。その森は、小さいけれども歴史的に由緒ある神社へとつながっていた。神社では年に一度、夏祭りが開かれる。そのお祭りで僕はある年、銀色のボールペンを買った。

そのボールペンの柄は、引っ張るとラジオのアンテナ式にビューンと伸びるようになっている。お祭りの屋台でしか手に入らない、その子供だましな商品を、ぼくはえらく気に入り、いつも持ち歩いては、振り回したり、授業中にいじくってたりしていた。それで、先生に取り上げられた。

いつか、返してもらえるものと待っていたところが、先生は一向に返してくれない。程なく、同級生の誰かが、僕に言った
「先生の机に置いてあったあのボールペンを、Aが盗んだのを見たよ。だからあれ返してもらえないんだよ」
ぼくはその同級生の言葉を、頭から信じた。

Aは、クラスの中でも成績が悪く、運動神経も鈍く、家庭も決して裕福では無かったと思う。僕は日に一度、Aに詰め寄り、叩いたり蹴ったりして泣かした上で、ボールペンを返すよう迫った。明日、ボールペンを持ってこいよ!と僕がAに凄むと、そのたびに彼は
「わかったよ・・」
と力なく言った。しかしAは決してボールペンを持ってこなかった。そして僕はまた、叩いたり蹴ったりして泣かした上で、同じ事を繰り返した。

当時の僕にとっては、盗人を罰する正義の行為のつもりであった。ほんのつまらないボールペンの為に、ぼくはこのイジメをどれくらい続けたかよく覚えていない。何週間か、あるいは何ヶ月か位だったかもしれない。今になっても、泣きそうな顔をして僕から逃げようとするAの表情が鮮明に思い浮かぶ。僕にとって、少年時代の最も恥ずべき、後悔の思い出になっている。

Aがボールペンを盗んだという同級生の言葉が本当だったのか、間違いだったのかは分からない。しかしAは、いっさい弁解もしなかったし、反論もしなかった。ただ毎回、
「わかったよ(明日はボールペンを持ってくるよ)」
と力なく言うことを、ひたすら繰り返すだけであった。

なんでだろう?と今、考える。

きっとAは、思いを言語化する能力に乏しかったのではないかと、想像する。僕に対して「そんなボールペンは知らない。」とか「もう無くしてしまったから返せない」というような、だれでも出来るような簡単な弁解すら、Aには難しかったのかもしれない。

いじめられて、生死の境へ追い込まれるくらいになってしまう小中学生は、弁解したり、反論したり、許しを乞うたりするような言葉のコミュニケーションが苦手な子供が多いのではないか。きっと、ぼくがAにしたように、難癖つけられた上で弱みを握られていて、それを正確に、先生や家族に伝える事がどうしても上手くできなくて、一向に理解もされない。大津市の話題になっている少年の背景にも、似た事情があったような気がする。

それは、その少年(少女)の生まれ持った性質であることもあろうし、または、幼少の頃から、言葉によるコミュニケーションの機会が失われていたという場合もあるだろう。その他にはひょっとしたら「言い訳」や「弁解」を極度に嫌い、自分の非をあっさり認める事を、「潔い」とか「素直だ」といって尊ぶニッポン的風土にも関係があると思う。