体罰

このあいだ、新聞やテレビジョンなどにおいて、高校の部活動での体罰問題が話題になっていた。ぼくは、桑田真澄氏の意見に賛成で、体罰をもちいて学生を恐怖支配するなんてのは、良くないと考える。

ありがたいことに、私が所属する高専という学校では、体罰が必要になる、あるいは体罰を行使したくなるような状況は殆どない。学生さん達に感謝してます。だから教員として、体罰に賛成とか反対とか、あまり考えることもなかった。とは申しても、お説教が必要になるときは良く有ります。僕の場合は、年に数回くらい。今はクラスの担任をしていて、そこに留年しそうな学生がいる。その彼(Aくん)があまりにだらし無いので、先日僕はお説教をしました。

おりしも、業務が多忙を極めストレスが溜まっていた。Aくんへの説教を終えた後、仕事のストレスが少し和らいだような気がした。僕は、仕事のいらだちを、Aくんにぶつけてしまったのであって、これは良くなかったと反省した。たとえ、体罰を行使しなかったとしても、説教の言葉に苛立ちや怨恨、呪詛などが含まれてしまうと、それはもう暴力と似たものになってしまう。

例えば授業中、学生達が騒いでいる。「静かにしてくださーい。」なんて優しく言っても、彼らは静かにはしない。そういうときは
「静かに!」
と怒鳴りつけるのが有効で、教員の間でもよく利用される。しかし怒鳴り声をあげると、だいたいはそこに、苛立ちのニュアンスが含まれてしまう。あ、苛ついてやがると学生に思われてしまう。同僚には上手な先生がいて、その先生の「静かに!」は、まったく怒りの感情が感じられない。効果はまったく同じ。そういう怒鳴り声を身につけたいが、そう簡単ではない。

桑田真澄氏は「体罰に愛情を感じた事はない。」と言っていたが、上記先生の怒鳴り声のように、怒りや苛立ち、怨恨が全く皆無の平手打ちの名手が日本にいる。アントニオ猪木氏のような平手打ちがもし一教員に可能であれば、体罰も許されるだろう。